魂文書(自我について)
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私の世界には、私しか存在しない
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私は少年の頃、この世には自分だけしか存在しないと考えていた。
私一人が実在する存在で、他は人も鳥も虫も花も石も、すべてが幻覚のようなものではないかと考えていた。
しかも、その幻覚は、私が触れようとすると、たちまちにして実体を持つようになるのだ。
それはどういうことかというと、私の体にはオーラのようなものが取り巻いており、幻覚がそのオーラの内部に入った箇所だけが実体化して、固さや重さを持つようになるのだ。
今考えれば、実に馬鹿げて矛盾だらけの考え方ではある。
しかしまあ、私はそんなことを子供ながらに考えていたわけである。
では、なぜそんな考え方を持つようになったかといえば、別にこれといったきっかけがあるわけでもない。
ただ、自分以外の人間、生物、もの、それらに思いを寄せたとき、それらが何を見て何を考えているかがわからなかった。そこで、ある種の孤独感を感じ、上記のような発想をしたのではないかと、大人になって理由づけをしている。
みなさんは、不思議に思ったことはないだろうか。彼が見ているもの、考えていることがどうして自分にわからないのか。
たとえば、好きな女の子が同じ教室で少し離れたところに座っているとしよう。
同じ授業を受けているのだが、自分は彼女のことを考えている。
では、彼女は何を考えているのだろうか。
授業の問題を解いているのだろうか。それとも自分のことを考えてくれているのだろうか。
私は黒板よりも彼女の方をチラチラと見ている。
しかし彼女は黒板の方を見て、私を見ることはない。では、彼女の席から見える黒板は、私がたまにしか見ない黒板と同じように見えているのだろうか。
自分にはつまらない文字と記号が並んでいるだけの黒板だが、彼女には面白い何かが見えているのだろうか。
そんな疑問を、私は持ったことがある。
なぜ、ものは自分の目を通してしか見えないのか。両親や兄弟のように近しい間柄であっても、彼らの目を通して見ることはできない。当たり前のことではあるが、私には不思議であった。
たとえば、私が友人に向かって、
「あれ、変な形に見えないか?」
と、たずねる。
すると、
「うん。確かに妙な形をしている」
と、彼は答えてくれるが、本当に彼の目にはそれが見えているのだろうか疑問に思えるときがある。なぜなら、確かめるすべがないのだ。
もっと詳しく彼にたずねれば、彼はその形状をより具体的に言い表す。
確かに同じものを見ているようだ。自分の見ているものと全く同じ形状を言い表す。
しかし、本当の意味で彼が自分と同じものを見ているかどうかを確かめるには、彼の目を通して見てみるしかないのだ。
言い換えれば、彼の眼球の網膜に投影された映像を見てみるしかないのだ。
しかし、当然の事ながら、そんなことはできない。
彼の言う言葉を信じて、彼も同じものを見ているのだろうと頷くしかないのだ。
また、彼が転んで膝を擦りむいたとする。彼は、
「痛い」
と、涙を流して泣く。
しかし、このときも彼の痛さは私にはわからないのである。自分の経験上、泣きたいくらい痛いだろうとは推察できるが、本当に痛いかどうかは私にはわからない。
つまり何が言いたいかというと、彼が体験することや感じることは、あくまでも推察するだけであって、実際に私には体験できないのである。
それは、ある意味で彼が存在しないのと同じではないだろうか。
漫画や映画で、自分が目を覚ましているかどうかを確認するために、ほっぺたをつねる、というのがよく出てくる。それと同じである。
痛い、と感じるから自分の存在が確認できるのである。
ならば、彼の痛みが確認できないということは、彼が存在しているかどうかも確認できないことにはならないだろうか。
もちろん、子供の頃にそこまで深く考えたわけではない。ただ、他の人が何を見て何を考えているかわからない現実を、漠然と自分一人だけが実在する世界だと思うようになったのである。
しかしながら、大人になるにつれ、それは間違っていることがはっきりとしてくる。
彼らも実在し、彼らもものを見、彼らも考え、そして彼らも悩んだりしているのだ。
とはいうものの、わたしの心のどこかに、まだ彼らの存在を確信していないところがあるような気がする。
ある哲学者が、「我思う。ゆえに我有り」という言葉を残している。つまり、我の存在は容易に確認できるが、「彼思う」が、どうしても確認できないのが現実だ。
彼はみずからの考えを発言するから、彼も確かに思っているのだ、と考えることもできる。
しかし、彼の言葉が必ずしも彼の思考から出ているとは言い切れるだろうか。もしかすると、彼は機械のように何者かによって喋らされているだけなのかもしれないのだ。
本当の意味で彼の存在が確認できるときは、おそらく彼の思考が、ダイレクトに私の思考と結びつき、自分が何かを考えるときのように彼の考えが確認できたときではないだろうか。
そして、彼の痛みが、ダイレクトに私の神経に伝わり、大脳に訴えかけたときではないだろうか。
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遺伝子について
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ここで話は突然それるが、皆さんはカッコウという鳥をご存じだろうか。
テレビで見たのだが、実に興味深い鳥である。
カッコウは自分で産卵のための巣を作ることはない。他人の巣に産卵するのだ。
なんという鳥の巣に生みつけるのか忘れたが、カッコウは別の種の鳥の巣に、親が留守の間に卵を産み落としていく。そして、あとは知らんぷりなのだ。
生みつけられた鳥は、一個だけ卵が多くなっているが、数の概念を持ち合わせていないために、増えたかどうかもわからない。
そして、自分の卵といっしょにカッコウの卵も暖めてしまうのだ。
やがて、カッコウの雛が殻を破って出てくる。しかも、他の雛よりも真っ先に孵化するのだ。
面白いのはここからである。卵からかえったカッコウの雛が、まずはじめになにをするかといえば、他の卵たちを巣から落としてしまうのである。
つまり、育ての親の実の子供たちを抹殺してしまうわけである。こうすることにより、餌を独り占めすることができるからだ。
育ての親がある日、餌をとって巣にもどってみると、そこには自分たちとは似ていない雛が一羽だけ口を大きく開けて待っていることになる。しかし、親鳥はなんの疑念も抱かずに、カッコウの雛を我が子として育てつづけるのだ。
ここで大事なことは、カッコウの雛がライバルとなる他の卵を落とすという知恵を、誰に授かったか、ということである。
カッコウの雛がかえったとき、本当の親であるカッコウが密かにやってきて、
「こうするんだよ、おまえ」
と、知恵を授けるわけではない。
では、その知恵は誰が授けるのだろうか。
それはカッコウの遺伝子のなかに組み込まれている知恵なのであろう。
遺伝子の情報のなかに、『孵化したらまずはじめにそばにある卵を巣から落とせ』という命令が組み込まれており、それが雛に出されるようなのだ。
つまり、カッコウの雛は、遺伝子の命令に従っただけなのである。もし、その巣に他のカッコウの卵があったとしても、同じように同朋であるその卵を落としているに違いない。
そのように、遺伝子の情報には肉体を形づくる情報だけではなく、行動をも制御する情報が組み込まれているのだ。
生殖行動なども、遺伝子によって制御されているもののひとつである。
陸上生物の大半は雄の生殖器を雌の生殖器に挿入して精子を注入する。
魚の場合は、メスが産卵し、それにオスが精子をかける。
受精の手法がまったく違うが、それぞれの生物は、誰かに教わらなくても、ちゃんと生殖を実行する。
要するに、生物は遺伝子の命令に従って行動する、または行動するときがある。
つまり、生物は遺伝子の情報によって動かされているわけである。
しかし、遺伝子の命令のままに生物が動いているとすれば、それはある意味でロボットと同じである。自我を持ち得て、はじめて生物と呼べるのである。
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自我密度
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それはともかく、私は少年の頃からおのれの存在、つまり自我について興味を持っていた。
彼の存在は確認できないが、自分の存在ならば確認できる。「我思う、ゆえに我有り」なのである。
「我思う」つまり、それが自我であろうと私は考える。
では、自我とはいったい私の体のどこに存在するのだろうか。
そもそも、自我とはなんだろうか。
また、いつから存在するのだろうか。
彼も実在するのならば、彼にも自我があることは間違いないだろう。
では、犬はどうだろう。私は子供の頃犬を飼っていたことがあるが、犬にも自我があるように思える。昼寝をする犬を観察していると、夢を見ているらしく、足をバタバタと走っているように動かしたり、ときには吠えたりもする。夢を見るということは、犬にも自我があるからではないだろうか。
犬に自我があるとすれば、ネズミにも自我はあるのだろうか。
では、魚はどうだろう。
草や木にも自我は存在するのだろうか。
アメーバーや細菌にはあるのか。
そう考えていくと、あることにふと気がつく。生体をつくる構造の複雑さによって、自我の量とでもいおうか密度とでもいおうか、そんなものが違ってくるのではないだろうか、ということである。
人は夕日を見て綺麗だなあと思いにふける。
これもあるテレビで見たのだが、猿も夕日を観賞することがあるらしい。
「なんか、穏やかな気分になるなあ……」
などと、猿も思っているかもしれない。だが、それも眼球という視覚機能を備えているからできることである。
モグラのように視覚機能がない生物には、夕日そのものを知らないだろうから、夕日を見て感傷にひたることはない。逆に土の匂いを嗅いで、
「いい匂いだなあ。穏やかな気分になるなあ……」
などと思うかもしれない。
私は夕日や星を見て、あれこれと思いめぐらすことができるが、モグラやミミズは見ることすらできない。
これは、別な見方をすれば、より多くの情報を処理できる能力または器官があるほど、濃密な自我を持つのではないだろうか。
では、同じ人間のなかではどうだろうか。
私の子供を見ていると、成長と共に、はっきりとした自我が芽生えてくるように思える。性格も意思も人格も、徐々に形づくられてくるようだ。
それはつまり、体の成長、特に脳の成長と大きくかかわってくるのではないだろうか。
つまり、自我は生物の構造の複雑さによって密度が違ってくるし、同じ個体でも成長によって違ってくると考えている。。
カエルの自我はネズミよりも希薄であり、人間の自我はネズミよりも濃密な自我であり、赤子の自我は成人よりも希薄な自我である。
私は、カエルにも極めて希薄ではあるが自我が存在すると考えている。
人間には無いに等しく見えるが、カエルにも希薄な自我、つまりわずかながらの意思があるに違いない。遺伝子の命令は、極めておおざっぱである。時期が来たら生殖行動をとれとか、腹が空いたら餌を探せとか、そんなものであろう。ならば、移動する方角くらいは、自分の意思で決めているかもしれない。
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自我を持つものと持たないもの
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肝心なことは、自我を持つものと持たないものの境界線を、どこに引くかということである。
そして、自我を持つものは、いつ持つかということである。
そこで、人間が誕生して成人するまでを考えてみよう。
まず、受精がある。
精子は遺伝子の命令によって、一生懸命卵子に近づこうと泳ぎつづける。
卵子も、精子を受け入れると、すぐに他の精子が侵入できないように殻を固くする。
では、精子や卵子に自我があるのだろうか。
何億もの仲間の泳ぎを見ながら、
「俺が先に卵子に取り付くんだ。邪魔するな」
と、ある精子は考えているのだろうか。
また、迎える卵子は、
「あの精子は嫌い。こちらの精子さま、頑張って」
などと、ひいきして声援を送っているのだろうか。
想像すると笑ってしまう光景であるが、精子や卵子に自我があるとは考えづらい。
話をもっと先に進めて、生まれたばかりの赤ん坊ではどうだろうか。
彼ならば、自我を持っていそうだ。
大きな声で「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣く。
母親が胸に抱くと、力強くオッパイを吸う。
だが、はたして彼には自我があるのだろうか。
母親の子宮から取り出された瞬間、彼は、
「やったあ、ようやく窮屈な子宮から抜けだすことができた」
などと、思うだろうか。
私はこの時点では、赤ん坊にはまだ自我(明確な自我)がないのではないかと思っている。(実際には、生まれたての赤ん坊にもきわめて希薄な自我がすでに存在しているはずであるが、ここでは理解しやすくするために、生まれたての赤ん坊には自我が存在しないとしておきたい)
つまり、生まれたての赤ん坊は自我が無く、遺伝子の命令に従っているだけのロボットのようなものだと思ってほしい。
結論を言うと、自我とは、個体がなにかに興味をいだいた瞬間、または遺伝子の命令に背いたときにはじめて発生するものだと私は考えている。
こういうことである。
生まれたての赤ん坊は、精子と同じように遺伝子の命令に従っているだけで、腹がすいたから泣いて知らせる。うんちをしたらお尻をふいてもらうために泣いて知らせる。遺伝子のプログラムに、そうするように命じられているから、そうしているだけなのだ。「我思う」などということを、赤ん坊はしないと私は考えている。
だが、やがて日がたち、赤ん坊の人間としての機能も充分に発揮できるようになり、さらに多くの情報を処理できるようになって多くの刺激を受けることになる。
目から得る両親の顔の映像。
耳からは、呼びかける両親の声。
手や肌からも両親のぬくもりが伝わってくる。
それらの膨大な情報、つまり刺激を受けながら、赤ん坊はさらに成長していく。
だが、この時点では、まだ遺伝子の命令に従っているロボットである。
しかし、その瞬間はすぐに訪れる。
遺伝子の命令に従うならば、空腹になれば泣いて知らせる、ということになるが、赤ん坊は両親から渡されたガラガラや、天井につらされたおもちゃに気を取られて遺伝子の命令に従わずに遊びつづける。たとえるならば、このような瞬間に自我が発生するのだと私は考えている。遺伝子の命ずるままに動くロボットでなくなった瞬間である。
つまり、遺伝子の命令とは別のところでみずからの行動を制御するものが自我なのである。
赤子がもっと成長すれば、それは明確になる。
「ご飯ですよ」
と、母親に呼ばれても、遊びに夢中になっている子供は空腹を我慢してでも遊んでしまう。
遺伝子の命令に従うのならば、空腹を感じたときには、それを満たそうと努力するはずだ。しかし、子供は空腹よりも遊びを選ぶ。
「僕は、まだ遊びたいの」
と、母親に反抗するのと同時に、子供は遺伝子の命令にも逆らうことになるのだ。
「僕は、まだ遊びたいの」
……いかにも、自我って感じではないか。
さて、私は前述で精子と卵子には自我はないと述べた。
思うに、人は受精して誕生するまでの段階で、自我が発生すると私は考える。脳が形成され、聴覚が発達し、母体の心音などから受ける刺激によって自我が発生するのだろう。
さて、自我が発生するという考え方は、すなわち発生しない時期があるということでもあり、それはまた発生しない生物もあるということである。
では、生物全般において、自我を持つものと持たないものとの境界線はどこだろうか。
いろいろ考えてみると、やはり脳がかかわってくるような気がする。脳の有無が大きく影響するのではないだろうか。
では、脳とはなんだろう。体の多くの機能をコントロールする部署だと私は考える。しかし、構造の単純な生物になればなるほど、脳の区別がわかりづらくなってくる。どこからが脳で、どこからがただの細胞なのか。ひょっとすると、ニューロン細胞があれば脳なのか。
また、なぜ脳がなければ自我が発生しないのか、という疑問もあるだろう。
それに対しては、外界から受ける多くの情報を記憶し、分析し、関連づけ、そして判断するのが脳だから、としか答えようがない。私の考えでは、好奇心が自我を発生させるのであるから、外界からの情報を有効に処理する脳が不可欠だ。
そうなると、細菌や単細胞生物のたぐいには自我はないだろうし、おそらく植物も自我を持ち得ていないと思われる。
ときとして、自我を備えているかのごとく反応する植物もいるが、それはただ、受けた刺激に対して反応しているだけにすぎないと私は思う。
さて、そういうわけで、自我とは遺伝子の命令とは無関係に自己の行動を制御したときに発生するものであると、私は定義づけたい。
遺伝子による命令に対し、個体がそれぞれの都合で逆らったときに自我が発生する、と私は考えるのだ。
そして、より多くの情報を得るにつれ、自我はどんどんと成長していく。より濃密に、より複雑に。
身体的個体差などは、自我の個体差に比べれば、微々たるものにしか思えないほど、自我というものは千差万別である。それは、一卵性双生児であっても、天と地ほどに差があるのではないかと私は思う。
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セックスには、なぜ快楽がともなうのか
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ここまで考えて、突然、私は別のことを考えた。
人間の生殖には、なぜ快楽がともなうのか。
他の動物には、セックスに快楽がともなうのだろうか。
犬をまた例に出すが、犬はある期間しか発情しない。発情すると、オスもメスも交尾しようとするが、その瞬間、彼らには快楽がともなっているのだろうか。
もし、快楽がともなうとするならば、なぜその期間だけしか後尾しないのだろうか。快楽がともなうのなら、人間のように、のべつ幕無しに交尾してもいいはずである。
また、魚について考えてみると、メスが川底などに卵を産みつけ、そこにオスが精子をかけるだけである。どうみても、そこに快楽はともなっていないように思える。
ひょっとすると、精子や卵を放出するときに快楽をおぼえるのかもしれないが、かりに産卵の時に快楽がともなうとしても、鮭などは体中傷つけながら川をさかのぼり、そして産卵と共に息絶えてしまう。おのれの死をかけてまで求めるような快楽などあるとは思えない。
私が思うに、鮭は快楽のために生殖をするのではなく、ただたんに遺伝子の命令に従って生殖をおこなうのだと思う。つまり、生殖そのものには快楽はともなわないのだ。
おそらく、これはほとんどの生物において同じだろうと私は思う。生殖行動には快楽はなく、あくまでも遺伝子の命じるままに、衝動的に行動しているのだろう。それも、自我が希薄であるために、遺伝子の命令に抗しきれないせいであろう。
では、なぜ人間の場合は快楽がともなうのか。
それは、人間の自我がきわめて濃密になったからに他ならない。
自我は、遺伝子の命令に背いたときに生じるものだとすれば、つまり、遺伝子の命令と自我は敵対するものと言ってもいいだろう。
人間ほどに濃密な自我と情報処理能力を持つと、生殖行動について考えるようになるのだ。なぜ、自分はセックスをしなければならないのだろう。どうしてセックスをしようとするのだろう、と。
セックス自体に快楽がないとすると、残されているのは苦痛だけだ。
母体は妊娠と出産の苦痛をかかえる。
父親は、妊婦と産まれた子供の養育の苦労を背負う。
太古の時代、今のような恵まれた環境ではないので妊婦と子供をかかえるという事は、その一家にとって大きな負担となる。
それならば、遺伝子が命じる生殖行動、つまりこみ上げてくる性衝動をじっと我慢すれば、出産の苦痛と養育の苦労からまぬがれることになるのではないか。
人間は、おそらくそう考えたであろう。
遺伝子の命令と自我との葛藤である。
そして自我がまさった人類は、滅亡への道をたどる。
確か、原人のなかで、我々現代人とは別の種族の滅亡した原人がいたはずだ。名前は忘れたが、その原人の滅亡した最大の原因は、ひょっとするとセックスに快楽がともなう構造になっていなかったからかもしれない。セックスに快楽がともなわないため、滅亡した原人は、上記の理由でセックスを拒むようになった。そして滅亡。
そうなると、遺伝子としてはおおいに困るわけだ。
そんななかで、セックスに快楽がともなう突然変異の個体が誕生する。その個体は、快楽を求めるために、せっせとセックスをする。それにより、快楽がともなう子孫がどんどん増える。そして、それが今の人類ではないだろうか。
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自我と魂は同一であり、肉体に付随する
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さて、私は今まで自我という言葉を用いてきたが、私は自我と魂は同一のものだと思っている。
広辞苑をひもとくと、自我は『認識・感情・意思・行為の主体を外界や他人と区別していう語。自我は、時間の経緯や種々の変化を通じて、自己同一的なものという意識をともなう。意識や行動の主体をさす概念』。
魂は『動物の肉体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れて存在するとした。霊魂。精霊。たま。』とあるが、私は自己の意識こそが魂であると考えている。
人が意識を失ったときなど、魂が肉体を離脱しているのだという人もいるが、私は意識はすなわち魂だと思っているので、そのときは魂も失っているのだと思う。厳密にいうと、意識(自我)が完全に失ったわけではなく、極めて希薄になっただけであり、横たわる自分の姿を上空から眺めた経験がある人は、おそらく希薄になった意識のなかで、周囲の音を聞いてその状況を描いたものだと思っている。
完全に意識を失うときは、死を迎えたときだろう。
ゆえに、魂は肉体の誕生と共に発生し、死と共に消滅する。魂は決して不滅の存在ではなく、むしろ肉体に付随するものである。魂が先に存在して肉体に宿るのではなく、肉体が誕生してそこに魂が発生するのである。
魂は無形であるゆえに不滅であるかのように思われているが、私の魂(私の自我)は私だけのものであり、私の誕生以前であろうが、私の死後であろうが、私の魂は誰かのものであることはない。そう信じている。
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もっとも濃密な自我を持ち得たもの
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では、もっとも濃密な自我を持ち得たものはなにかと考えると、それは、おそらく即身仏となった者であろう。水、食物のいっさいをみずからの意思で絶ち、念仏を唱えながら成仏していった高僧である。
遺伝子の命令とは、個体が生き延びて子孫を残すことにつきる。それに対し、即身仏となった高僧は、それらいっさいの命令を拒絶したことになるのだ。
勘違いされては困るので付け加えておくが、自殺は、これには当てはまらない。自殺とは、生きることへの苦痛や絶望からの逃避であり、高僧のそれとはまったく違う行為である。
遺伝子の命令とは、言葉を換えれば煩悩であろう。いっさいの煩悩を断ち切るには、強い意思、つまり濃密な自我が必要なのだ。
即身仏となるには生半可なことではできない。自殺という安易な行為ではないのだ。
ちなみに、この文書を書いている途中で知ったのだが、『超自我』という言葉がある。『自我から分化発達し、あるべき行動基準によって自我を観察し、欲動に対して禁止的態度をとるもの』という意味らしい。高僧のそれは、まさに超自我である。
ただし、即身仏となる行為が、有意義であるとは私は思っていない。
遺伝子の命令どおり、生きて子孫を残すことの方が、社会的にも人類にとっても有意義に思える。
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クローンについて
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次にクローン人間について考えてみたいと思う。
これにつては、上記のことから、次のような結論が導かれる。
つまり、肉体が形成され、そこに自我が発生するのであるから、たとえクローン人間であろうとも、複数のクローン人間を作り上げれば、それぞれに別々の自我が発生することになる。
よって複製もとの自我とは基本的に別である。
たとえヒットラーのクローンを作り上げても、そのクローンの自我は、おそらくヒットラーとは別のものになるだろう。第二次世界大戦を引き起こしたような人物にはならないと思われる。ひょっとすると、優しく誰からも愛されるようなヒットラーになるかも知れない。
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コンピューターは自我を持つか
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さて、次にコンピュータの問題が出てくる。
コンピュータは自我を持つことができるか、という問題である。
正直言って、これはかなり難しい問題である。
私としては、コンピューターもいずれは自我を持つようになると思うが、では、なぜそのように思うのかと問われれば、答えに窮してしまう。
ただし、自我を持ち得るだけの能力を持ったコンピューターが製造されたとするならば、おそらくそのコンピューターは自我が発生した直後には、それとわかる自我を持つことになるだろう。
それは、こういうことである。
人に自我が発生して、それとわかるまでに一年以上がかかる。受精して、誕生するまでに一〇ヶ月。その間に最初の希薄な自我が発生し、自我がはっきりと確認されるようになるまでの数か月をたして一年以上。つまり、人の場合はそれくらいの時間を経て、はっきりとした自我が確認されるわけである。
それは、脳が成長し、必要なだけの情報を入手するのにかかる時間でもある。
ところが、コンピューターの場合は、脳にあたる回路ははじめから決められている。つまり成長ということはない。となれば、自我が発生するのに必要なだけの情報を入手する時間だけが問題となる。
おそらく、コンピューターが自我を持った場合、発生したのとほぼ同時に、人にも確認できるほどの濃密な自我になるだろうと思われる。
ただし、コンピューターが自我を持ったとき、いくつかの問題が発生するであろう。
それは、多くのSF作家が題材にしているように、意志を持ったコンピューターの反乱である。
自我とは、遺伝子の命令とは独立して、独自に思考や行動を制御するものであると考えている。コンピューターの場合、遺伝子命令はすなわちプログラムに相当する。つまり、コンピューターが自我を持つと、プログラムを無視して、独自に行動するおそれがあるからだ。
また、自我を持ったコンピューターに人格権のような権利を与えるかどうかも問題になるだろう。
すでに『ロボット三原則』なるものも考えられているようだし、いずれ真剣に検討しなければならなくなるかもしれない。
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愛情について
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ここでは、愛情と恋愛とを分けて考えたい。
愛情とは肉親に対する愛であり、恋愛は異性に対する愛としたい。
なぜならば、この二つは別の次元で発生したと思えるからだ。
まず、愛情について考えてみたい。
肉親に対する愛情、とりわけ子に対する愛情は、遺伝子と深く関わっているように思われる。
進化の初期段階の生物には、子育てをしないものが多い。これは、肉親に対する愛情を持たないからだ。つまり、遺伝子は当初は子孫を増やすことはするが、育てることまではしようとしなかったのである。
ところが、子育てをする個体が突然変異体としてあらわれた。この時点では、この個体にはまだ愛情を持って子育てをしているとは言えない。おそらく、子育てをするように突然変異の遺伝子から命令を受けているにすぎないだろう。
しかしながら、子育てをする個体と、しない個体とでは、その子孫が生存する確率は、断然子育てをする方が有利に働く。そして、子育てをする遺伝を備えた個体が増えていく。
やがて、進化が進み、脳がさらに発達していくと、子育てが愛情へと変化していく。これが、愛情が発生した仕組みだと思われる。
では、恋愛はどうだろうか。
私は、恋愛は単純に好みの延長だろうと思っている。
愛情は、先に述べたように、子育てから発生したと思われ、これは本能と大きく関わっている。
恋愛はどうかというと、これは子孫を残す伴侶を選ぶことに関わっている。
では、進化の初期段階の生物は、伴侶を選んでいるだろうか。おそらく選んではいないだろう。偶然であろうが必然であろうが、出会った異性と交配しているにすぎないと思う。
ところが、自我が濃密になってくると、個々の好みというものが発生してくる。(好みが発生する仕組みは、後に考えてみる必要がある)
この好みによって、個体は伴侶を選ぶようになる。
もちろん、選ぶ基準はまちまちだ。
しかも、この基準は、子孫が繁栄するという観点からすると、あまり意味がないものである。
なぜなら、選ぶ基準が子孫の繁栄に大きな影響を及ぼすものならば、どの個体もその基準にそって伴侶を選び、そしてその基準を備えた個体のみがどんどん増えることになるからだ。
つまり、選ぶ基準はやがて標準化され、その基準においては個体差がなくなるからだ。どの個体を選んでも、その基準はクリアされているわけである。
そのことから、好みは、子孫繁栄(遺伝的)にはあまり意味をなさないものであろうと思われる。
そして、遺伝的にあまり意味がないということは、すなわち遺伝子の命令と無関係な存在である自我がたずさわっているからに違いない。
自我によって好みが発生しているからこそ、好みは個体によって大きく違うのだ。
いっぽうの愛情は、子育てをするという遺伝的なところから発生しているため、愛情における個体差というのはあまりない。
これが愛情と恋愛の違いだと私は思っている。
愛情は遺伝的な背景において発生し、恋愛は自我によって発生したものである。
ただし恋愛であっても、長らく一緒に生活したり、また相手と自分との間に子が生まれたりすると、相手に対して肉親に対するのと同じような愛情がわく。これは、遺伝子が誰を肉親であると定義できないからであろう。
もし、自分の遺伝子が他者と比較して肉親であるかどうかを識別できるとしたら、愛情はあくまでも肉親だけに注がれ、長らく連れ添った伴侶であっても、相手には恋愛しかもつことはないだろう。
ところが、遺伝子に他者が肉親であるかどうかの判別はできない。判別をするのは、個体の自我である。自我が、肉親であると認識するようになれば、その相手にも肉親に対する愛情がわくのである。
さて、上記のことから、ちょっと変わった結論が得られる。
子育てに関心を持たず、さらには肉親への愛情もないような固体がいるが、これはある意味で、その個体の自我密度が異常に濃密なせいではないだろうか。
遺伝子は、子育てをさせるために愛情を持たせようとするが、その個体の自我は遺伝子の命令に逆らい、肉親への愛情を無視しているのではないだろうか。
別な言い方をすれば、その個体の自我がひたすら自己の興味を追求しているとも言える。
これは、自我が濃密であることが、必ずしもよいとは言えない例だと思える。
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本能欲と自我欲
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上で説明したように、愛には本能による愛と、自我による愛とがある。
そして、同じように欲望にも、本能による欲望と、自我がもつ欲望がある。
このふたつを、本能欲と自我欲という言葉で分けたいと思う。
まず、本能欲であるが、これはよく言う、食欲・性欲・睡眠欲などがそれである。
かたや、自我欲とは、物欲・金銭欲・名声欲・性欲(おもに快楽を求める欲望)などである。
このふたつの違いは何か。
字のとおり、本能欲は本能が要求するものであり、自我欲は自我が求めるものである。
本能欲の方は、子孫を残すために必要最低限の欲求であり、かたや自我欲は子孫を残すためには直接関係のない欲望である。
そして、この自我欲こそが、煩悩と呼ばれるものの中でもきわめて強力な欲望なのである。
自我密度が希薄な生物は、主に本能によって行動を制御されるため、本能欲が占める割合が高い。
ところが、人間のようにきわめて自我密度が濃密な生物は、自我が発する欲望の方がはるかに強い。
本能欲は、なんとなく腹が減ったとか、眠くなったなどの意識をもつ程度だが、自我欲ははっきりとした意識で、あれが欲しい、これが欲しいと、自己を突き動かす。そしてこれが、もっとも厄介な代物なのである。
前述した、即身成仏を遂げた高層も、この自我欲を抑制するのが、主な目的であろうと思われる。しかも、自我欲を制御するのも、結局のところ自我に頼らざるを得ない。
自我は、みずからが発する強力な欲望を持て余し、あるいは制御しきれずに思い悩み、そして最終的には自我によって自我欲を制御しようと努力する。
なんとも大変な矛盾を抱えているような気がするが、それが自我なのである。
自我欲が強すぎると、他をかえりみずにそれのみを追求することがある。愛情についてで述べたように、自我欲を追求するあまり、肉親に対する愛情、とりわけ子育てをしなくなるという弊害も出てくる。
こういった弊害をなくすために、道徳や宗教などの教えがあるわけだが、必ずしもうまくいかないのが現実である。
===関係書物===
先日(1999.4.8)。朝日新聞の広告欄で興味ある本を見つけた。
草思社から出版されている「脳が心を生みだすとき」(著者スーザン・グリーンフィールド)という本である。
主な内容の欄には、
●受精卵から赤ん坊に至る過程のどこで意識が生まれ、いつ記憶が生じるのか?
●嗜好や個性は生まれたときから決まっているのか?
など、私の考えと共通すると思われる項目が上げられている。是非、読んでみたいと思っている。
また、おなじスペースの中には、「セックスはなぜ楽しいか」(著者ジャレド・ダイアモンド)や「心はどこにあるのか」(著者D・デネット)なども広告していた。これらも、大いに関係あるような気がするので、いずれ読んでみたいと思っている。
さて、この後もいくつか考えてみるべきことがあり、いずれここに掲載する予定でいるが、現在思案中であり、なおかつ多忙によって、この文書はとりあえずここまでとしたい。
また、私自身の考え方も変わるかもしれない。
つまり、未完成なわけである。
この文書が完成することがあるかどうかわからないが、気長に少しずつ手を加えていきたいと思う。
1999.5
仲路さとる